エンディングノート

16日で、51才になりました。

それで、14日の火曜日に行ったお医者さんに「50も済んだので、今年からエンディングノートを毎年書いて更新していこうと思っているんです」と、言いました。

すると、先生が「あかんあかん。エンディングノートなんか、まだ全然必要ない」と。

「弟の時も、父の時も、母の時も、本当に急だったので、本当に困ったんです」
「まだ、書くことはない。息子さんに、言えばいいことやん」
「エンディングノートって、ダメなんですか?」
「あれは、生きて行こうという気持ちがだんだんとなくなっていってるから、書いておこうと思うんや」
「私、たかしが困らないようにと、それと自分が毎年どんな年をとったのか、記念のつもりで書こうと思ったんですが」
「自分で決めたことは、実際にその方向の通りにしてしまう、という研究もあるんや。今、流行ってる、終活てのも、それと同じやねん」
「私、生きて行く気持ちとか、エネルギーが減っていってるんですかね」
「そういうことになるな。だから、書かなくてええねん」
「はぁ」
「いつか、本当に、息子さんの為に書く必要のある年になるから。まだまだ必要ない」

・・・だそうです。

またいつか、ほんまもんの「エンディングノート」を書くことになるようです。

いつくらいになるんやろうなぁ。










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# by marurin373 | 2017-11-16 01:35 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)

もう昔のことに

両親のことをいろいろ考えて、ぐちゃぐちゃしてたことを頭の中で整理して、そして文字にしたことで、やっと私の中で「昔のこと」になりました。

読んでいただいた方々には、不快な思いを抱かせてしまったと思いますが、もう、この「両親」のことには触れません。

やっと、この年にして、たかしと2人で、真っ新な気持ちで前に進むことができるようになりました。

もちろん、全て忘れたわけではないし、悪夢として出てくることもあり、フラッシュバックに悩まされていることは確かなのですが、もう、そんなことは乗り越えていこうと改めて思います。

昔のことよりも、たかしの「これから」の方がずっと大事です。

そして、私自身を労わることも。

新しい生活、新しい喜び、新しい悩み。

いろいろなことを乗り越えてきましたが、やはり一番つらかったことでした。

けど、もう、そんなことに捉われずに、進んでいきます。








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# by marurin373 | 2017-11-06 21:27 | 思うこととかなど | Trackback | Comments(0)

誘発

「何故、私は両親から厳しすぎる(虐待とも充分言えるような)育て方をされたのか?」

カウンセリングの先生、何気ない友達の一言、精神科の先生の話しなど、いろいろな方々の意見を聞いて、私なりに頭の中で整理が漸くできました。

そして「文字」にすることができるようになりました。

まず、カウンセリングの先生が仰ったことは、
「あなたは、小さい時、親のプライドが保てなくなるくらい論理的で、IQも高くて、頭も良い子供だったのでしょうね」でした。


小学校の時に学校でIQの検査があり、後で母が呼び出されました。

内容は、IQが、他の子よりもずっと高いので、育て方に気を付けた方がいい。もしかしたら、頭脳犯の詐欺師になるか、博士号をとるような子に育つか、両親の育て方次第なのだから、充分気を付けないといけない、ということを担任の教師に言われたそうです。


私の母は、腹が立つと、すぐに舌打ちをし、頰を叩く人でした。

幼稚園に通っていた頃のことなのですが、原因は私が母の言うことに逆らったということで、母はいつものように「ちっ」と舌打ちをし、私の頰を叩こうとしたのですが、その時、私が
「ちょっと待って。おんなじ叩くんやったら、指輪はめてない方の手で叩いて。指輪が当たって、余計に痛いし」と、叩こうとする母の手を止めました。
それで、母は、余計に腹が立ち、指輪を外してまで、私の頰を叩くのでした。

あと少しで小学校、という時に暮らした家は、父方の祖母と一緒でした。

その家は所謂「うなぎの寝床」で、間口は狭いのですが、奥行きはずーっと部屋や庭、離れ、物置き、納屋と続いて行くような古い古い家でした。

時々、母は、私を「物置きにいれる」という罰を与えました。

しかし、物置きは、最初は暗くてよく見えないのですが、目が慣れてくると、天窓から差す光でそんなに「恐いところ」ではありませんでした。
それより、古い京人形や、アルバム、雛人形、五月人形、それに甲冑などもあって、子供心をくすぐるくらい、宝がたくさん納まっている「楽しい」ところでした。

それで、せっかく楽しく探検をしているのに、祖母が私を助けに来るのです。

「また納屋に入れられてたんか? かわいそうに、早よ出といで」と、出されてしまうのです。

その時の私は「また、おばあちゃんとお母さんとの仲が悪うなって、いややなぁ」と、思うのでした。

母がいない時は、祖母が「あんたのお母さん、怒ってばっかりやさかい、嫌いやわ」と、私に言い、母は私に祖母の悪口を言うので、小学生の低学年の頃から、うんざりしていました。

その前、話しが前後しますが、両親が結婚して、私が産まれて暫くは、3人で暮らしていました。

私の一番古い記憶は、夜になり、部屋に布団を敷かれて寝かされるのですが、毎晩、なかなか眠れず、隣の部屋での両親が話しているのをずっと聞いていました。
布団の中にいるのもイヤな時は、こっそり抜け出して、暗い部屋の隅でぬいぐるみで遊んだりしていました。
母がそれに気付いて「いや、まだ寝てへんわ」と言うと、父が「もう、放っとけ」とか話しているのを聞きながら、眠くなるのを待っていました。
2・3才の頃から、不眠症だったようです。

時々、母が父に「もう、車で寝かし付けてきて」と言い「プアーマン・ミニクーパー」と言われる、N360に私を乗せて、京都のいろんなところを父とドライブしていました。
いつもはお酒を呑んで、気分屋で、恐い父でしたが、2人でドライブをしている時は、いろんな話しをしてくれて「この話しは、お母さんには内緒やで」という約束で、本当にいろいろな話しをしてくれました。
その時の私は、まだ3才くらいだと思うのですが、父はあまり「子供扱い」せずにいてくれたように思います。

その3才の時、N360で天橋立まで行ったのですが、京都市からずっと北の方に行くと、山間部に入ります。道もカーブが続き、私は面白くて「ぐわーん、ぐわーん」とか言いながら楽しんでいたのですが、母がやたらと「ちょっと、止めて」と言い、吐いていました。
母は真っ青な顔をして「もう帰りたい」と身勝手なことをいいますが、父に「今からやったら、帰るよりあっち行く方が早いさかい」と宥められ、ということを何度もして、私もなんかだんだんと楽しくなくなっていって、天橋立まで行きました。

「天橋立ではな、後ろ向いて、股の間から覗いて観るんや」と、父に教わり、後ろを向いて股の間から覗くのですが、うまくできずに、父が笑っていました。

そんな楽しいひと時を過ごすことが悪いことのように、母は青い顔をして、口にハンカチをあててずっとベンチに座っていました。

後でわかったのですが、その時、母は弟を身籠っていて、まだ気付いてなかったのでした。

私は大きくなっていく母のお腹をさわってみたいのですが、母はいつも機嫌が悪く、トイレでは吐いてるし、話し掛けても無視されるし、そのうちに私は大好きな母方のおばあちゃんのところに預けられるようになりました。

「この子が言うことが、いちいち癇に障って、しゃあないねん。しんどいのに腹立つし、そやさかい、暫く、もうずっと預かっといて」と、祖母に手を繋がれている私の目の前で母が言い、帰っていきました。

で、私の4つ下の弟が産まれ、とにかく「お姉ちゃんなんやさかい、我慢しよし」という言葉を、毎日、何度も聞かされて幼稚園に入園して、その後、父方の祖母と暮らすようになりました。

私が95点を取ると、母は「なんであと5点が取れへん!」と怒ります。

けれど、弟が80点を取ると、すっごい褒めるのです。

「この差は、一体何やろう?」という疑問を抱いたまま、大学まで進学しました。

小学校4年生の時に、全国統一のテストがありました。

1人は、京都では老舗で有名で入塾試験があるような塾に通う男の子。

1人は、家で宿題をすると弟がやかましいし、何かと用事を言いつけられるので、放課後に宿題をすませて、晩ご飯の手伝いを言いつけられる私。

この2人だけが、100点をとったらしいのです。

担任の先生がとにかく褒めてくださって「ちゃんと、家に帰ったらおうちの人に言うように」と仰るので、私は帰ってから、どんなテストで、どんな結果だったのか、を報告しました。

次の日。

先生が「昨日、家帰って報告したら、なんて言わはった?」と聴かはりました。

男の子は「よく頑張ったね。次も、頑張って勉強して、100点を目指そうね、と言われました」と、照れ臭そうに言うてはりました。

次に先生が私に「お前んとこは、なんて言うてくれはった?」と言わはったので、ありのまま答えました。

「毎日、予習・復習して、先生の話し聴いてたら、100点は当たり前や、と言われました」

先生は何も仰らず、教室全体がざわざわして「・・鬼ババや」とか「恐いなぁ」とか、そんな声が聞こえてきました。


ある日、学校から帰る頃、雨が降ってきました。

私はどうしようかなぁと、校門の方へ行ったら、なんと母が傘を持って迎えに来てくれました。

私は嬉しくて、思わず「傘、持って来てくれたん?」と言うと、母は「いや、これはあの子のや」と、弟の傘だけ、持って来ていました。

私は悲しくて、いつもなら友達の傘に入れてもらうとか、用務員室で傘を借りたりして帰るのですが、その日は濡れたまま帰りました。

母は「あんたは、傘借りたりして、うまいこと濡れへんように帰ってくるけど、あの子はずぶ濡れになって、帰ってくるねん。そやのに、そんなに濡れて帰ってきたんは、当て付けか?」と、怒られてしまいました。

小学校の6年生の時、京都では一番難しいといわれていた私立の中学を受験してみぃひんか?と、担任に言われたのですが、母に言うと「お金がかからへん中学があるんやさかい、そっちに行かせます」と、わざわざ先生に言いに学校に来ていました。


何故、母が「あと5点」とか、全国統一テストで100点とっても、私立の中学にしても、振り返ってみると、母なりに迷っていたのがわかります。

「頭はいい」と、思ってくれていたとは思うのですが、けれど「それ以上」のレベルになると、私はどこまでいくのかがわからない。
とにかく、私は「できるだけ、普通のレベルのところで、トップを取る」というふうに育てたかったのかもしれません。


大学になっても、両親は、申し合わせたように同じことを言うてました。

「子供には、親が手をかけなくても、自分でなんとかやっていける子供と、親が手をかけないとあかん子供がいてるんや。お前はなんとか1人でも生きていくようになる。けど、あいつは、わしらが手を貸したらんと、生きていけへんのや」


私は、朝から夕方まで働いて、自分で学費を捻出し、2回生から独り暮らしをするように言われました。
だから、いつもお金がありませんでした。

弟は、志望校に落ちたので、定時制高校に行き、3年間だけバイトして、4年生は絵の塾に通わせてもらい、年間何百万もする美大に進学しました。

両親は、私のことを、本当はどう思っていたのでしょうか?

信用していたのでしょうか?

それとも、恐がりつつ、毎日顔を合わせていたのでしょうか?
まるで化け物のように。

私も、受験の時や、定期テストの時は、必死で夜中まで勉強してました。

何も勉強しないから、弟はテストの点数も悪いのです。

けれど、弟には、私にはない「絵」の才能がありました。

両親は、大事に大事に弟を育て、お金をかけていました。

しかし、26才で、自らの人生を終えました。

「なんであんたが残ったんやろな。あんだけ大事にしてたのに、死んでしもて」と、母が呟いたのを、聞いてしまい、改めて、私は「自分」について深く考えるようになり、後追いもしましたが、生き残ってしまいました。

今、弟、父、母と亡くなって、私1人が残りました。

「天才も20才越えたらただの人」です。

今は、誰に相談することもできず、手探りでたかしを育てています。

「言われて悲しかったことは、言わない」と「余程のことがない限り、叩かない」

この2つだけ、決めています。
それでも、たかしを傷付けてしまうことを言うてしまっています。

「親としてのプライドを保つ為に、厳しく(虐待とも言えることも多くあるが)育てた」

これが、私の両親の本当のところだったのでしょう。

許すとか許さないとか、もうそんなことはどうでもいいことですが、私がこんな年になり、たかしという息子と暮らしているからこそ、わかったことかもしれません。

ただ、その「親としてのプライドを保つ」ということと、殴るということ、私が「知らなかった」といくら言っても「いや、お前は知ってた」と言って、信じてもらえないことなどが、その「親としてのプライドを保つ」ことと同じだ、とは、私は思いません。

両親は、IQなどというテスト結果や、定期テストや、通知簿の数字というフィルター越しに私を見ていたのかもしれません。

弟が亡くなった時、私が父の胸に顔を埋めようとしたら、突き飛ばされました。

両親にとって「子供」は、弟だけだったのかもしれません。

母は、30前になった私に「ちょっと勉強できるから、て、こずらにくいことばっかり言うあんたのこと、大嫌いやったわ」と言うし。

私は、ただ単に「テストでいい点とって、褒めてもらいたい、好かれたい」と思い、頑張って、友達とも遊ばずに勉強してたのに。

それが、気に入らなかったとは。

独り暮らしの家に帰り、ビールを呑みながら、久し振りに、泣きました。


けれど、もう全てすんだ事。

いつまでも引きずることではありません。

今は、私が「親」世代です。

それに、あの人達も、もういません。

時折、父に殴られる寸前の「・・・来る!」というびくっとした感覚が、現れます。
フラッシュバックというものです。

もう、文字にすることで、この問題については、私の中では終わりました。

今は「親」としてたかしを育てなければいけません。

私の人生の中での疑問が、ひとつ、クリアになりました。

あとは、たかしと前へ進むだけです。









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# by marurin373 | 2017-10-19 14:09 | 思うこととかなど | Trackback | Comments(0)

混乱

いろんなことを、ずーっと考え続けているのですが、うまく言葉にできないでいます。

ちょっと頭の中を整理整頓して、文字にできるようになったら、また綴ってみたいと思っています。

短期間の間に、いろんな考え方や、助言や、叱責や、いろいろなことを受け止めきれずにいて、その上に、しないといけない事がたくさんあり、心身共に疲れています。

文字にすることができたら、頭の中も整理できたということなので、暫くは考えつつ、文字にできるようにしていきます。










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# by marurin373 | 2017-09-03 21:36 | 思うこととかなど | Trackback | Comments(0)

パチモンくん

私が、coopの個別配達で購入した、白くてサイコロみたいな、んで、よく汚れが落ちるっていうスポンジで、台所のシンクを洗っていたら。

「お、かあちゃんも、それ使てるん?」
「何が?」
「それ、激落くん」
「ああ、これか」
「オレんとこも、それ使こて、いろんなとこ洗ろてるわ」

たかしよ。

君は、いつから「店長」になったんや?

たぶん、まだ名札に「実習中」て書かれてるんやろ?

ま、嫌がらずに頑張ってるみたいやさかい、その高飛車な態度も、今回だけは、許しましょう。

「学校は、お金を支払って、いろいろ教えてくれはるところ。
バイトは、いろいろ教えてくれはるのに、お金がいただけるところ。
ありがたいなぁ〜」
と、私が言うたら、たかしは「なるほどなぁ」と、納得してはりました。

しかし、英語の宿題も、頑張れ。








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# by marurin373 | 2017-07-30 09:23 | 息子(たかし) | Trackback | Comments(0)

17

今日は、たかしの17才のお誕生日です。

私も、かあちゃん歴17才。

17年前の、24日、25日、そして26日のことは、今でも鮮明に覚えています。

出産は、決して母となる私だけの力で赤ちゃんを産むのではなく、たかしも自然の摂理通りに生れようとしていたのだと知ったのは、いつやったんやろう?

たかしと2人で暮らし始めて、もう13年。

何か壁が現れては、なんとか乗り越え、するとまた何か問題があり、どうにか解決し、また山が現れては、登り切り、と、している間に、17年が経ちました。

昨夜、たかしの母子手帳を取り出して見ていたのですが、とにかく不安と、心配と、けど喜びの言葉がいっぱい綴られていました。

そら、初めてのことばっかりやもんなあ。

年はとってても「かあちゃん」になって、まだ間もない頃のことやもん。

ひときわ大きな文字で「産まれてきてくれてありがとう。たかしがお腹の中にいることは、いっぱい蹴ってくれて、よくよく知っていたけれど、こうしてちゃんと会えたことが何よりも嬉しいです」と書いていました。

毎年、思います。

ほんまに、産まれてきてくれて、ありがとう。

私は「たかしを産むために産れてきた」とも思います。

こうして、命が脈々と繋がっていくんですね。

弟も、父も、母も、きっとたかしのことを見守っていると信じています。

そして「かあちゃん」として、17年、育ててくれてありがとう。

ちょっとのことでは動じなくなる精神力を、たかしに鍛えていただきました。

「なんか、誕生日やさかいに、食べたいもん、ある?」
「いつもの、かあちゃんの、野菜炒め」
「誕生日くらい、なんか違うもんにしような」
「オレは、いつもと同じように過ごして、17才になったんやなぁと、しみじみしたいねん」
「ほんまに何もいらんの? カステラとか、おまんじゅうとか」
「特別なことはせんでええねん。いつもの通りに、かあちゃんにしか作れへん、オレの大好きな野菜炒めが、食べたいねん」
「ふ〜ん」
「いつもと同じように、今日がやって来たことが、嬉しいねん」
「まぁなぁ・・・」
「かあちゃんは、入院してないし、オレは、まあまあ元気でバイトも続けられてるし」
「ふ〜ん」
「いろいろあったけど、無事、我が家で17才になれたことが、嬉しいだけやねん」
「なるほどなぁ・・・」
「それに、なんかおまんじゅうとか、カステラていうても、オレの稼いだバイト代から買うんやろ」
「そら、そんなことはあらへんけど」
「いつも通りでええねん」

急に、言うことが変わったので、私も驚きつつ、たかしの言葉を聞いていました。

「親離れ」にむけて、着々と進んでいるようです。

それに引き換え、私は・・・まだまだ「子離れ」できそうにありません。









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# by marurin373 | 2017-07-26 04:45 | 息子(たかし) | Trackback | Comments(0)

いたしかたなく

「かあちゃん、」
「ん?」
「なんで、台所にメガネが置いてあるん?」
「あぁ・・・」
「なんでなん?」
「あのな、例えばスパゲッティを何分茹でたらええんか、とか、何ccとか、作り方とか、何分チンしたらええんかとか、とにかく、細かい字が、もう見えへんさかいに、古うなったメガネ、置いてるねん」
「大変やな」
「そやねん、千切りとかする時は、メガネないと切れへんねん」
「あーあ、年はとりたーないなぁー」


先日、子宮を全摘した術後の検診に、いつもの総合病院に行ってきました。

手術をした病院は、4月から産婦人科がなくなったのです。

なので、私は自分でこのブログに書き留めていた手術の方法をプリントアウトして、いつもの病院で引き続き診てもらうようにお願いしました。

それと、誰もが通る「更年期障害」が、やってきたようなのです。

いくら、クーラーのよく効いた涼しい部屋にいても、急にぐわーっと滝のような汗をかいて、暫くしたら、すっとひくのです。

で、婦人科の先生に「えー・・・汗が・・・」と言うと、血液検査をしましょう、ということになり、1週間後に、また受診しました。

「検査の数値で言うと、閉経です」と、はっきり言われました。

本当は不安定な時期らしいのですが、私には、もう子宮もないので、心配することもありません。

頭の中で「閉経です」という言葉がぐるぐるして「女性引退」という結論に至りました。

かあちゃんは、もう「おんなのひと」とは、ハッキリ言えなくなってしまったのだよ。

とにかく、汗がひどいので、2日に1度貼り替える「エストラーナテープ」というものを処方してもらいました。

取り敢えず、このテープを貼って、様子を見てみます。

あーあ、年はとりたーないなぁー。









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# by marurin373 | 2017-07-23 21:42 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)

弟が「お姉ちゃん、お姉ちゃん、いつまで寝てるねん」と、いつもの鼻声で、私を起こしました。

それで起きたのですが、今は2017年の7月9日になったばかりの深夜。

たかしが私のベットの下で寝ています。

弟の声を、確かに聞いたのに、あれは「夢」やったんか・・・。

そう思うと、堰を切ったように、涙が溢れてきて、泣いて泣いて止まらなくなりました。

寝ていたのに、たかしも「どうしたんや?」と起きてきて、私が泣きながら「お姉ちゃん、て、呼ぶから、起きたのに、いてへんかった」と言うと、眠たいのと、毎年のことなので、たかしも、だんだんとそんな私に嫌気がさしてきたようで。

「もうな、そんなに毎年毎年泣いてたらな、天国で、困ってはるからな、もう、そろそろ乗り越えなあかんのちゃうか?」と、たかしが言いました。

「乗り越えられるて、思うか?」
「生きたはった時よりも、亡くならはってからのほうが、もう長いんちゃうのん」
「ちがう! 26年、生きてはって、亡くなってから、20年やもん!」
「もうな、乗り越えな、仕方ないんちゃうのん」

ここで、私は、決してたかしに言ってはいけないことを言ってしまいました。

「そやかて、たかしは、一人っ子やん。兄弟無くす、悲しみはわからへんやん」と。

たかしは「そやな、確かに、オレは一人っ子やしな、あんたの悲しみはわからへんわな」と言って、あっちに行ってしまいました。

今の私の言葉は、決して言ってはいけないことです。

私が、たかし以外の子供を産まなかったんやから。

「親」が「子供」に対して、言うべき言葉ではありませんでした。

でも、簡単に「乗り越えな、仕方ないんちゃうのん」と言うので、つい、口から出てしまいました。

私は、弟を、あんなかたちで亡くした悲しみを、分かち合う家族も、もういません。

父も、母も、もうとっくに、あっちに逝っています。

独りで、堪え、耐え偲んで、泣き、やり過ごすしかない、淋しさもあります。

7月1日の、弟の祥月命日の日に書いたブログは、今読むと、ウソばっかりです。

「そういう風に思うことにしよう」という、内容です。

そして、たかしが望んでいることを、書いただけでした。

弟が亡くなったことと、たかしがいてることは、決して「同じ」になることは、ないのでした。

ただ、毎年、私が号泣する姿を見て、たかしが困り果て、どうしたらいいのかわからない、という姿を見てきているので、私は「姉として」よりも「母として」の立場で、書いたものでした。

けど、やはりそんな簡単に、すっきりとできる訳もなくて。

ちゃんと泣いてなかったから、ずっとずっと、ツラい気持ちが心の中で暴れていて、抑えるのに必死でした。

私は、深夜に号泣し、たかしにひどいことを言い、でも「かあちゃんも、落ち着いたら、ちゃんと寝ぇな」と声をかけてくれて、たかしは寝てしまったようです。

たかしにしたら「乗り越えんと、仕方が無い」と言うしか、なかったのだと思います。

毎年、泣いてる母親にかける言葉など、16才の男の子に思いつく筈もありません。

それでも、たかしなりに、私の為に、考えて言ってくれた言葉やったんやと思います。

その言葉に、逆らうような態度をとってしまい、言ってはいけないことまで言って。

「姉」としても「母」としても、失格です。

悲しい時には、ちゃんと、でもこっそりと、泣かないと、こじれてしまうということがわかりました。

朝になって、たかしが起きてきたら、ちゃんと謝ろうと思います。

それまで、私も、少し寝ることにします。

「ええかっこしい」な内容のブログは、後でしっぺ返しをくらうということも、身を以て知りました。

今は、いろいろな思い出や、弟の声や、顔や、歌っている声、話し合っていた言葉、初めて赤ちゃんの弟を見た時のことやなんかと、それと、たかしがお腹にいてる時のことや、赤ちゃんの時のこと、そして悲しい思いをさせてしまっていたことやなんかが、頭の中をぐるぐるしていて、文章もきちんと書けていません。

頭の中を整理して、ちょっとでも落ち着く為に、そして、本音のブログを残す為に、ただ心のうちを文字にしています。

後で読んだら、また変な内容になっているかもしれません。

素直に「悲しくて仕方が無い」という自分も、認めないとダメですね。

それと、たかしは私の「息子」であって、決して私から甘えてはいけないということも、肝に命じました。

たかし、ごめんなさい。

かあちゃんは、言い過ぎました。

・・・練習です。

そろそろ、寝ます。






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# by marurin373 | 2017-07-09 03:07 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)

語彙

今は思春期の、どの辺りかはわかりませんが、今年17才になるたかしも、ちゃんと思春期を満喫してはります。

先日は、私に、このようなご発言をなされました。

「かあちゃんのアイデンティティは、野菜炒めと、カレーガーリックチャーハンだけやろ」と。

「アイデンティティ」。

たかしに「アイデンティティて、どういう意味で言うてんの?」と訊いたら、
「存在意義、てこと」と仰いました。

中学生の時とは違い、高校2年生ともなると、ボキャブラリーも豊富になったはるようです。

しかし、私の「存在意義」が「野菜炒めとカレーガーリックチャーハン」だけ、とは、これ如何に。


「野菜炒めて、かあちゃんが、指の手術した時、自分で作ったやん」
「ちゃうねん、作ってもろた、てところが、大事やねん」
「なんやそれ」
「自分で作ったら、めっちゃまずくてもな、かあちゃんに作ってもろたら、おいしいねんて」

・・・それ、私は喜んでええの?

「かあちゃんが手術で、入院したら、どないするん?」
「そやし、日常が、大事やねん」

「言いくるめられた感」がありますが、まだ「子供のたかし」の部分が、ほんの少し、残ってるみたいです。

しかし、これって、彼女とかに言う言葉やと思うのですが・・・。

ほんまに、かあちゃんに言うてもええんかいな、て思うくらい、嬉しい言葉でありました。






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# by marurin373 | 2017-07-06 19:56 | 息子(たかし) | Trackback | Comments(0)

20年

今日は、弟の祥月命日です。

今年で、20年。

弟が遺したバンドのカセットを、CDにおこしてもらい、それをMacに取り込んで、最近、ずっと、それを聴いていました。

書類を探さないといけなくて、いろいろと探していたら、小さなアルバムが出てきました。

それをぱらぱらと見ていたのですが、その中で「あれ? 私、たかしとツーショットの写真なんて、撮ったっけ」と思い、よく見ると、たかしではなく、弟でした。

今のたかしくらいの年齢の弟が、そこに私と写っていて、かなり驚きました。

立ってる佇まい、醸し出す雰囲気。

よく見ると、顔は違うのに、あ、鼻と口はよく似ていますが、髪質や、顔色が、あまりにも似ていることに、驚きました。

いなくなって、20年が経ち、今日の私の心境が、少し変わっていることに気が付きました。

弟の26年間の思い出は、とてもとても大事。

私の宝物です。

けれど、これから本当に大事なのは「たかしのこれから」です。

あと9年で、たかしは弟と同い年になり、やがて越えていきます。

「姉として」の役目よりも「母として」の役目の方が大事です。

そう思うと、なんとなく、心が軽くなりました。

弟に会いたくて会いたくて、仕方が無い時があるのですが、それは、26年、お姉ちゃんをしていたから。

もっと大事なことは「母である私」です。


こう言う風に思えるようになるまで、20年、かかりました。

毎年、この日は、たかしにも、つらい思いをさせていました。

泣いて泣いて、苦しんでいました。

その度に、たかしが、私を慰めてくれていました。

そうや。

私には、たかしがいてる。

何故、こんな大事な、大切なことに、気が付かなかったのでしょうか?

悲しみのあまり、母であることを忘れていたのかも知れません。

弟の歌声を聴きながら「たかしのこれから」について、考えていました。


やっと、「呪縛」から、解き放たれたような、そんな気分です。

弟も、喜んでいるかもしれません。

「お姉ちゃん」だったことには、変わりはありませんが、同時に、私は「母親」。

「たかしのこれから」を、1人ではなく、本人のたかしと、学校の先生と、お医者さんと、相談しながら、考えていきます。

で、弟には、見守ってもらうことにします。


いっつも、ありがとさん。

これからも、よろしゅうに。

ちゃんと、叔父さんとして、たかしを守ってや。









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# by marurin373 | 2017-07-01 21:50 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)

たかしが、バイトから帰ってきました。

今は、まだトレーニング中で、覚えることもいっぱい。

「立ったまま」は、お医者さんに、してはいけないと禁止されていましたが、動くことも多いので、さほど気にならないそうで、よかったです。

しかし、その日のたかしは、いつもとは違っていました。

「あーしんど!」と言い、コーラを飲んで、なんか憮然としています。

「どしたん?」
「ちゃうねん、オレな、ちゃんとな、検品してん」
「うん」
「タバコとおんなしようにな、端っこから順番に、バーコードしてん」
「うん」
「そやのにな、全部、ちゃんとできてへんって、言われてん」
「まぁ、最初やしなぁ」
「言われた通りに、してんで?」
「うん」
「でな、納品が3つって書いてあったのに、2つしか、なかってん」
「次、頑張ったら、ええやん」
「ちゃうねんってば、オレが言いたいのはな、どこで間違うたかが、わからへんことやねん」
「ふーん」
「そやし、どこをどう直したらええのかが、わからへんねん」
「うーん」
「・・・ちゃんと、バーコード、したのになぁ・・・」
「次も、おんなじように、丁寧に、ひとつひとつしていったら、あかんの?」
「ん、まぁ、そうやねんけどな」
「トレーニング期間なんやさかいに、しゃあないやん」
「・・・オレなぁ・・・どうも、機械全般と、相性が悪いねん」
「ま、慣れも、あるんちゃうか?」
「ん」

たかしは、釈然としない、といった面持ちで、隣の部屋に。

ストレス解消のために、動画でも見てるんやろかと思い、覗くと、すやすやと眠ってはりました。

そら、初めてのことやもん。

しゃあない、しゃあない。

次、頑張ったら、ええねん。

私も、たかしに、同じ言葉しかかけることができませんが、頑張ってるということは、誰よりもわかってるつもりです。

中学の時と比べると、本当に大きく成長したように思います。

頑張れ、たかし。












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# by marurin373 | 2017-06-12 03:49 | 息子(たかし)

たかしが、アルバイトを始めました。

前から「高校生になったら、あそこで働きたい」と言っていましたが、病気を患っていることがわかり、たかしも私も諦めていました。

しかし、今回、私がこんなことになってしまい、たかしが私のかかっているお医者さんに「母が、今、一番悩んでいることは何ですか?」と訊いたら、先生が「あなたの学費のことです」と言われたので、たかしが意を決して働くことを決めたらしいのです。

理由を本人に告げるお医者さんも、ちょっと残酷やなぁと思うけれど、その一言で、たかしは諦めていたことを現実のものにするように、背中を押されたかたちになったのは、果たしていいことなのか、無理をさせてしまっているのか。

取り敢えず、週に1日、13時から16時まで、トレーニング期間を経て、実際に働くことができるかどうか、店長さんが判断しはるらしいのですが・・・。

たかしに課せられた課題は、ひとつ。

「声を張って」というものです。

初めて働く時、なかなか大きな声で「いらっしゃいませ」とは言えないものです。

特に、たかしは小さな声で、ぼそぼそと話すので、陽気に明るく元気に「いらっしゃいませ」と言うことは、本当に難しいと思います。

けど、それができるようになったら、たかしも明るく、積極的な性格になるかもしれません。

私が、たかしに「立ったままとか、品出しとか、どうもないか?」と心配のあまり言ってしまいましたが、たかしは「そんなこと、言うてる場合やない」と、きっぱりと言っていました。

初めての日は、緊張したり、初めてのことばかりで、時間がすぐに過ぎたと言っていましたが、これから、続けることを目標として、オレは頑張ると勇ましいことを言っていました。

けど、本当は、心身共に疲れていて、晩ご飯も食べずに、寝てしまいました。

私は、たかしに何もすることができませんが、一番難しい「見守る」をすることにします。










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# by marurin373 | 2017-05-28 03:17 | 息子(たかし) | Trackback | Comments(0)

症状

最近の、私。

すぐに、大事なものがなくなります。
だから、1日中、探し物をしています。

「何を食べたか」も忘れるけれど「何か食べたか」も忘れます。

お薬は、分包してわかりやすくしてもらっているのに、たかしに「薬、飲んだか?」と訊かれても、飲んだかどうかわかりません。

今日や昨日のことは忘れていますが、昔のことはちゃんと覚えています。

あんまり行ったことのないところでは、迷子になりました。

同じものばかり買ってしまいます。

使ってもいい分だけしかお財布に入れておかないと、入れてる分を全部使ってしまいます。

眠るお薬をちゃんと飲んでいるのに、4時間くらいしか眠ることができません。
でも、そのまんま起きていないと、眠くてまた寝てしまうと、そのままずーっと寝続けてしまいます。


自分でも、すっごく恐いです。

本当に元に戻るのか、とても不安です。

「若年性やないからね」と、お医者さんに言ってもらいましたが、本当に治るのか、恐いし、不安です。

取り敢えず、処方してもろたお薬をちゃんと飲んで、ちゃんと寝て、お医者さんの言う通りにしています。

本当に、認知症と同じ症状です。

「いろいろなことがあり過ぎて、忘れたいこともたくさんあるんやろうね」と、お医者さんが言うてはりました。

確かに、つらくて苦しくて悲しいことがいっぱいありました。

だから、脳みそが「逃避」しているんやと思います。

昨日の夜は、3時間くらいしか眠れなかったので、そのまんま起きています。

でも、土曜日なので、お昼寝しようと思っています。

今は、たかしが「お父さん」で、私が「子供」みたいになっています。

早く、かあちゃんに戻らないと、たかしもしんどいと思います。

さて、そろそろお昼やないから、朝寝をします。








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# by marurin373 | 2017-05-20 08:51 | 病気のこと | Trackback | Comments(0)

やっと、ブログが書けるようになるまでに回復しました。

今の私は「擬認知症」という病名をもらいました。
「赤ちゃん返り」ともいうそうです。

私1人では、もう解決できないくらいの事柄が一挙に押し寄せてきて、脳みそが「もう、これ以上はあかん」と、停止してしまいました。

なんかあると、くすんくすんと泣くのではなく、あーんあーんと泣くので、たかしも驚いて、どうすればいいのか、悩んでいたそうです。

ヘルパーさんが来はるから、その日は出掛けない曜日に、たかしは学校に行くので、帰りに私の通うお医者さんに行って、話しを聞いてきたそうです。

どんな話しをしたのかは、あんまり教えてくれませんが、ちょっとだけ、教えてくれました。

「今のかあちゃんの中には、5才と、50才と、80才のかあちゃんがいてるねんて」
と、話してくれました。

今日が何曜日か、わからない。

今日は何日か、わからない。

私がいつも座る椅子から、4つのカレンダーをぶら下げて、いつも「今日は何曜日やな」とか、何日やな、とか、確認しています。

日記も、何年も書き続けているのですが、夜、寝る前にお薬を飲んで、さぁ書こうと思うのですが、何があったか、さっぱりわからず、たかしに「かあちゃん、今日、何してた?」と訊いて、たかしが「今日のかあちゃんは、買い物に行ったよ」と教えてもらって、書いています。

脳みそに、膜が張られているような感じで、なんかぼんやりしていたり、逆にイライラしたりもします。

更年期障害の検査にも行こうかと思っています、と、お医者さんに言いましたが、今はまだ必要はないよ、と言われました。

いろいろ調べたりするよりも、ちゃんと寝て、食べて、誰かとお話していたら、治ると言われました。

検査結果が出て、説明されても、たぶん、理解できなくてよけいに不安になるよ、とも言われました。

4時間くらいしか眠れないと言うと、お薬を増やさはりましたが、効き過ぎて、今日は寝坊してしまいました。

お医者さんには、毎週おいで、て言われて、お薬も1週間分しか出してもらえません。

なので、週に1日、お仕事に行く日の帰りに、お医者さんに行っています。

早く治さないと、たかしに迷惑がかかるので、ちょっと焦ってきました。

訪問看護師さんが来てくれはるようにもなりました。

本当のおばあちゃんになったみたいです。

今は、5月です。

お母さんと、お父さんのお誕生日があります。

それだけは、忘れません。

「なんかあった時に、連絡するところ」を、紙に書いて、たかしに渡してあります。

そやさかいに、晩ご飯をちゃんと作ることができた日は、たかしにすっごく喜んでもらえます。
「んまい、んまい」と言って、たくさん食べはります。
私も、そんなたかしを見て、嬉しくなります。

文章を書くのは、脳みそがすごく疲れるので、今日は、ここまでにします。

おやすみなさい。










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# by marurin373 | 2017-05-19 21:13 | 病気のこと | Trackback | Comments(0)

ことの始まりは、こうでした。

私が、病院の待ち時間の時に、己の「手の甲」を、しみじみと眺めていて、なんともその年寄り臭い、ごつごつして、色艶の悪いのが、ほんまにイヤやなぁ、と、思っていました。

病院の帰りにたまたま寄ったドラッグストアが、全商品5%オフの日だったので、いろいろと見て回っていたのですが、ふと、ネイルケアの棚に目がいきました。

私の爪は、形も悪く、深爪で、色も悪い。

なので、高価なものではなく「ちふれ」のマニュキアの中で、一番ベースとなるような「肌色」のものを選び、ついでに除光液も買って、家に帰ってから、早速爪にマニキュアを塗っていました。

たかしが「プラモデルを作ってる匂いがする」と言って、私のところに来て「あんた、何してんの?」と言われました。

「いやな、かあちゃんて、爪の色も悪いさかいにな、マニュキアでも塗ろかなぁと思てな」
「ふ〜ん」
「こんなん、滅多にせーへんさかいに、うまいことできひんわ」
と、私が言うと、たかしが「右の手の爪、塗ったろか?」と言うてくれました。

「きれーいに、根元から先に向かって、まんべんのう塗ってや」
「頑張ってるがな」

たかしは、元来丁寧な仕事をするし、マメなので、思っていたよりも、きれいに塗ってくれました。

「ありがとうさん。あんたさん、きれいに塗れるんやなぁ」
と、私が言うと。

「オレにも貸して」

?

「・・・塗るん?」
「うん」

たかしの指は、亡父にそっくりで、しゅっとしてて、爪の形もきれいです。

亡父は、若い頃、そのあまりにも綺麗な指と爪の持ち主だったので、よく会社で女子社員に真っ赤なマニュキアを塗られていたそうです。

それ程までに、きれいな爪の形と指をしていたのですが、私ではなく、亡弟と、たかしが受け継ぎました。

たかしは、丁寧に、真剣に肌色のマニュキアを塗り出しました。

「かあちゃん、」
「何?」
「ちょっと失敗したし、取るのん貸して」
「ほい」
「ありがと」

ティッシュに染み込ませ、きれいに拭き取り、そしてまた塗り出したのです。

「かあちゃん、」
「何?」
「左手はきれいに塗れるんやけど、やっぱり利き手やない方がうまいこと塗れへんし、ちょっと塗って」


そういえば、たかしがまだ中学生の頃。

髪の毛を切りに出掛けるのも嫌がっていた為、横も後ろも、そして前髪も、思う存分伸び放題でした。

いつも私がゴムで髪の毛をくくったりしていましたが、じゃまくさいので、100円均一のお店で「カチューシャ」を買い、たかしはその「カチューシャ」を気に入って、毎日装備していました。

その時も、こんな気持ちになりました。

「私が産んだのは、男の子やんな?」

まぁ、私も、角刈りにして、しかも金髪にしたりするので、我が家は「ユニセックス」な家風ということで、たかしのことも暖かく見守っていきたいと思います。

今では、私よりもたかしの方が、爪のお手入れに熱心です。

爪切りなど使わず、爪やすりで、きれいにしてはります。


・・・このままでも、ええんやろか?

とか、思わないでもないですが、まぁ、面白い面もあるので、暫く飽きるまで、放っておくことにしました。

髪の毛も、短いよりも、長くしたいということも、先日初めて知ったし。

私が「おっさん」みたいやから、反動で、こんなになるんかなぁ。






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# by marurin373 | 2017-04-26 00:16 | 息子(たかし) | Trackback | Comments(0)