おとうさん

昨日の19日は、父の祥月命日でした。

父と母は、高校の同級生で、23才で結婚し24才で私が産まれました。

なので、父は、結婚してからが「遊び盛り」だったと、自分で笑っていました。

本当に秒毎に気分が変わるし、自分の立てた旅行の計画が3分もずれたら怒鳴るし、殴るし、私は父が大嫌いでした。

中学に入り、通知簿の評価が「1」下がると一発、殴られるのです。

でも、上がった時は、何にもありません。

「2」下がって「3」上がった時、私は「上がったことには変わりはないし」と喜んでいましたが、父は「下がったことに変わりはない」と、やはり2発殴るのです。

母も祖母も助けてはくれず、中学生の頃から「一人暮らしをしたい」と、家を出ることばかり考えていました。

大学生になって、お昼は9時から5時まで働いて、夜は大学に行き、一回生の時に貯金をして、19才になった私は、2回生になって、やっと一人暮らしを始めるのですが、本当に解放された気分で、それはそれは嬉しかったのでした。

事実、生活は厳しくて、学費も生活費も家賃も自分で賄わなければいけないので、しんどい時期でしたが、それでも、辛いとは思いませんでした。

暫く、父とは離れた生活をしていたのですが、私が腎炎になってしまい、実家に呼び戻されてしまいました。

父は家で仕事をしているので、私は「1人になる」場所を失ってしまいました。

怒鳴られても、逃げられない。

しかし、その頃一人暮らしをしていた弟が職を失い、どうしようもなくなったので、父に「あいつの面倒を見てやらなあかんさかい、お前は出て行け」と言われ、私は喜んでまた一人暮らしを始めました。

しかし、弟が自死し、父は家で1人でいることができない精神状態になってしまい、朝からお酒を呑んで、絶えず身体の中にアルコールが入っているようになり、とうとう半年後に入院してしまいました。

お見舞いに行くと、手振りで「何かつまむものを持って来てくれ」と頼んだり、病院の玄関の近くにある自動販売機でこっそり飲む「いちご牛乳がおいしい」とか、今までの父とは思えない人になっていました。

しかし、人工透析をするようになり、摂取する水分を極端に制限され、父は非常につらい思いをしていました。

何度か危篤状態になり、隣のベットのおじさんが看護師さんを呼んでくれはる、ということが2度ほどあり、父は個室に入ることになりました。

そして、父は、いつも誰かがいるようにしていたのにも関わらず、母も私も伯父も、誰もいない時に、1人で亡くなり、巡回の看護師さんに変わり果てた姿で発見されました。

すぐに連絡が来て病院に駆けつけましたが、院長先生が心臓マッサージをしてはり、直接心臓に長い長い針で直接注射をしたり、電気ショックをしたり、手を尽くしてくれはりましたが、父は、もう戻ってはきませんでした。

その時の父は、まだ55才でした。

父の晩年は、穏やかな性格になり、私のことを名前で、しかも「ちゃん」付けで呼んだり、人工透析をすることが決まった時は、身体障害者1級になったので「あのな、ワシ、1級やさかい、これ以上悪うなったら、初段になるねん」と冗談を言っていました。

 
私は、この世の中で、父のことが一番大嫌いで、一番大好きでした。

殴られても、それでもグレたりできなかったのは、多分「お父さんに好かれたい」と思っていたからだと思います。

父が亡くなった日のお昼、院長先生に
「ワシの夢は、孫抱くことですねん」と言っていたと、聞きました。

私が腎炎のために「妊娠・出産は諦めてください」とお医者さんに言われていたのにも関わらず、たかしを妊娠し、ひどい妊娠中毒になりながらも産んだのは、そんな父の言葉を聞いていたからです。

産まれたばかりのたかしを見て、祖母は、父の名前を呼びました。

それほどまでに、体格や大きさや顔つきが、父に似ていたそうです。

私は、また、父に会うことができたのかもしれません。


両親は同じ誕生月で、同じ月に亡くなっています。

2人共、絶えず「離婚する」と言い続けていましたが、結局、離婚することなく、一緒のお墓に入っています。

どうしても途切れない「縁」があったのかもしれません。

父が亡くなって、もう18年。

私も同じく、年をとりました。

たかしが、笑う時に片方の頬だけで「にやり」とする顔は、まるで父です。

こんなところに、お父さんがいてました。
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by marurin373 | 2016-02-20 23:43 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)