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誘発

「何故、私は両親から厳しすぎる(虐待とも充分言えるような)育て方をされたのか?」

カウンセリングの先生、何気ない友達の一言、精神科の先生の話しなど、いろいろな方々の意見を聞いて、私なりに頭の中で整理が漸くできました。

そして「文字」にすることができるようになりました。

まず、カウンセリングの先生が仰ったことは、
「あなたは、小さい時、親のプライドが保てなくなるくらい論理的で、IQも高くて、頭も良い子供だったのでしょうね」でした。


小学校の時に学校でIQの検査があり、後で母が呼び出されました。

内容は、IQが、他の子よりもずっと高いので、育て方に気を付けた方がいい。もしかしたら、頭脳犯の詐欺師になるか、博士号をとるような子に育つか、両親の育て方次第なのだから、充分気を付けないといけない、ということを担任の教師に言われたそうです。


私の母は、腹が立つと、すぐに舌打ちをし、頰を叩く人でした。

幼稚園に通っていた頃のことなのですが、原因は私が母の言うことに逆らったということで、母はいつものように「ちっ」と舌打ちをし、私の頰を叩こうとしたのですが、その時、私が
「ちょっと待って。おんなじ叩くんやったら、指輪はめてない方の手で叩いて。指輪が当たって、余計に痛いし」と、叩こうとする母の手を止めました。
それで、母は、余計に腹が立ち、指輪を外してまで、私の頰を叩くのでした。

あと少しで小学校、という時に暮らした家は、父方の祖母と一緒でした。

その家は所謂「うなぎの寝床」で、間口は狭いのですが、奥行きはずーっと部屋や庭、離れ、物置き、納屋と続いて行くような古い古い家でした。

時々、母は、私を「物置きにいれる」という罰を与えました。

しかし、物置きは、最初は暗くてよく見えないのですが、目が慣れてくると、天窓から差す光でそんなに「恐いところ」ではありませんでした。
それより、古い京人形や、アルバム、雛人形、五月人形、それに甲冑などもあって、子供心をくすぐるくらい、宝がたくさん納まっている「楽しい」ところでした。

それで、せっかく楽しく探検をしているのに、祖母が私を助けに来るのです。

「また納屋に入れられてたんか? かわいそうに、早よ出といで」と、出されてしまうのです。

その時の私は「また、おばあちゃんとお母さんとの仲が悪うなって、いややなぁ」と、思うのでした。

母がいない時は、祖母が「あんたのお母さん、怒ってばっかりやさかい、嫌いやわ」と、私に言い、母は私に祖母の悪口を言うので、小学生の低学年の頃から、うんざりしていました。

その前、話しが前後しますが、両親が結婚して、私が産まれて暫くは、3人で暮らしていました。

私の一番古い記憶は、夜になり、部屋に布団を敷かれて寝かされるのですが、毎晩、なかなか眠れず、隣の部屋での両親が話しているのをずっと聞いていました。
布団の中にいるのもイヤな時は、こっそり抜け出して、暗い部屋の隅でぬいぐるみで遊んだりしていました。
母がそれに気付いて「いや、まだ寝てへんわ」と言うと、父が「もう、放っとけ」とか話しているのを聞きながら、眠くなるのを待っていました。
2・3才の頃から、不眠症だったようです。

時々、母が父に「もう、車で寝かし付けてきて」と言い「プアーマン・ミニクーパー」と言われる、N360に私を乗せて、京都のいろんなところを父とドライブしていました。
いつもはお酒を呑んで、気分屋で、恐い父でしたが、2人でドライブをしている時は、いろんな話しをしてくれて「この話しは、お母さんには内緒やで」という約束で、本当にいろいろな話しをしてくれました。
その時の私は、まだ3才くらいだと思うのですが、父はあまり「子供扱い」せずにいてくれたように思います。

その3才の時、N360で天橋立まで行ったのですが、京都市からずっと北の方に行くと、山間部に入ります。道もカーブが続き、私は面白くて「ぐわーん、ぐわーん」とか言いながら楽しんでいたのですが、母がやたらと「ちょっと、止めて」と言い、吐いていました。
母は真っ青な顔をして「もう帰りたい」と身勝手なことをいいますが、父に「今からやったら、帰るよりあっち行く方が早いさかい」と宥められ、ということを何度もして、私もなんかだんだんと楽しくなくなっていって、天橋立まで行きました。

「天橋立ではな、後ろ向いて、股の間から覗いて観るんや」と、父に教わり、後ろを向いて股の間から覗くのですが、うまくできずに、父が笑っていました。

そんな楽しいひと時を過ごすことが悪いことのように、母は青い顔をして、口にハンカチをあててずっとベンチに座っていました。

後でわかったのですが、その時、母は弟を身籠っていて、まだ気付いてなかったのでした。

私は大きくなっていく母のお腹をさわってみたいのですが、母はいつも機嫌が悪く、トイレでは吐いてるし、話し掛けても無視されるし、そのうちに私は大好きな母方のおばあちゃんのところに預けられるようになりました。

「この子が言うことが、いちいち癇に障って、しゃあないねん。しんどいのに腹立つし、そやさかい、暫く、もうずっと預かっといて」と、祖母に手を繋がれている私の目の前で母が言い、帰っていきました。

で、私の4つ下の弟が産まれ、とにかく「お姉ちゃんなんやさかい、我慢しよし」という言葉を、毎日、何度も聞かされて幼稚園に入園して、その後、父方の祖母と暮らすようになりました。

私が95点を取ると、母は「なんであと5点が取れへん!」と怒ります。

けれど、弟が80点を取ると、すっごい褒めるのです。

「この差は、一体何やろう?」という疑問を抱いたまま、大学まで進学しました。

小学校4年生の時に、全国統一のテストがありました。

1人は、京都では老舗で有名で入塾試験があるような塾に通う男の子。

1人は、家で宿題をすると弟がやかましいし、何かと用事を言いつけられるので、放課後に宿題をすませて、晩ご飯の手伝いを言いつけられる私。

この2人だけが、100点をとったらしいのです。

担任の先生がとにかく褒めてくださって「ちゃんと、家に帰ったらおうちの人に言うように」と仰るので、私は帰ってから、どんなテストで、どんな結果だったのか、を報告しました。

次の日。

先生が「昨日、家帰って報告したら、なんて言わはった?」と聴かはりました。

男の子は「よく頑張ったね。次も、頑張って勉強して、100点を目指そうね、と言われました」と、照れ臭そうに言うてはりました。

次に先生が私に「お前んとこは、なんて言うてくれはった?」と言わはったので、ありのまま答えました。

「毎日、予習・復習して、先生の話し聴いてたら、100点は当たり前や、と言われました」

先生は何も仰らず、教室全体がざわざわして「・・鬼ババや」とか「恐いなぁ」とか、そんな声が聞こえてきました。


ある日、学校から帰る頃、雨が降ってきました。

私はどうしようかなぁと、校門の方へ行ったら、なんと母が傘を持って迎えに来てくれました。

私は嬉しくて、思わず「傘、持って来てくれたん?」と言うと、母は「いや、これはあの子のや」と、弟の傘だけ、持って来ていました。

私は悲しくて、いつもなら友達の傘に入れてもらうとか、用務員室で傘を借りたりして帰るのですが、その日は濡れたまま帰りました。

母は「あんたは、傘借りたりして、うまいこと濡れへんように帰ってくるけど、あの子はずぶ濡れになって、帰ってくるねん。そやのに、そんなに濡れて帰ってきたんは、当て付けか?」と、怒られてしまいました。

小学校の6年生の時、京都では一番難しいといわれていた私立の中学を受験してみぃひんか?と、担任に言われたのですが、母に言うと「お金がかからへん中学があるんやさかい、そっちに行かせます」と、わざわざ先生に言いに学校に来ていました。


何故、母が「あと5点」とか、全国統一テストで100点とっても、私立の中学にしても、振り返ってみると、母なりに迷っていたのがわかります。

「頭はいい」と、思ってくれていたとは思うのですが、けれど「それ以上」のレベルになると、私はどこまでいくのかがわからない。
とにかく、私は「できるだけ、普通のレベルのところで、トップを取る」というふうに育てたかったのかもしれません。


大学になっても、両親は、申し合わせたように同じことを言うてました。

「子供には、親が手をかけなくても、自分でなんとかやっていける子供と、親が手をかけないとあかん子供がいてるんや。お前はなんとか1人でも生きていくようになる。けど、あいつは、わしらが手を貸したらんと、生きていけへんのや」


私は、朝から夕方まで働いて、自分で学費を捻出し、2回生から独り暮らしをするように言われました。
だから、いつもお金がありませんでした。

弟は、志望校に落ちたので、定時制高校に行き、3年間だけバイトして、4年生は絵の塾に通わせてもらい、年間何百万もする美大に進学しました。

両親は、私のことを、本当はどう思っていたのでしょうか?

信用していたのでしょうか?

それとも、恐がりつつ、毎日顔を合わせていたのでしょうか?
まるで化け物のように。

私も、受験の時や、定期テストの時は、必死で夜中まで勉強してました。

何も勉強しないから、弟はテストの点数も悪いのです。

けれど、弟には、私にはない「絵」の才能がありました。

両親は、大事に大事に弟を育て、お金をかけていました。

しかし、26才で、自らの人生を終えました。

「なんであんたが残ったんやろな。あんだけ大事にしてたのに、死んでしもて」と、母が呟いたのを、聞いてしまい、改めて、私は「自分」について深く考えるようになり、後追いもしましたが、生き残ってしまいました。

今、弟、父、母と亡くなって、私1人が残りました。

「天才も20才越えたらただの人」です。

今は、誰に相談することもできず、手探りでたかしを育てています。

「言われて悲しかったことは、言わない」と「余程のことがない限り、叩かない」

この2つだけ、決めています。
それでも、たかしを傷付けてしまうことを言うてしまっています。

「親としてのプライドを保つ為に、厳しく(虐待とも言えることも多くあるが)育てた」

これが、私の両親の本当のところだったのでしょう。

許すとか許さないとか、もうそんなことはどうでもいいことですが、私がこんな年になり、たかしという息子と暮らしているからこそ、わかったことかもしれません。

ただ、その「親としてのプライドを保つ」ということと、殴るということ、私が「知らなかった」といくら言っても「いや、お前は知ってた」と言って、信じてもらえないことなどが、その「親としてのプライドを保つ」ことと同じだ、とは、私は思いません。

両親は、IQなどというテスト結果や、定期テストや、通知簿の数字というフィルター越しに私を見ていたのかもしれません。

弟が亡くなった時、私が父の胸に顔を埋めようとしたら、突き飛ばされました。

両親にとって「子供」は、弟だけだったのかもしれません。

母は、30前になった私に「ちょっと勉強できるから、て、こずらにくいことばっかり言うあんたのこと、大嫌いやったわ」と言うし。

私は、ただ単に「テストでいい点とって、褒めてもらいたい、好かれたい」と思い、頑張って、友達とも遊ばずに勉強してたのに。

それが、気に入らなかったとは。

独り暮らしの家に帰り、ビールを呑みながら、久し振りに、泣きました。


けれど、もう全てすんだ事。

いつまでも引きずることではありません。

今は、私が「親」世代です。

それに、あの人達も、もういません。

時折、父に殴られる寸前の「・・・来る!」というびくっとした感覚が、現れます。
フラッシュバックというものです。

もう、文字にすることで、この問題については、私の中では終わりました。

今は「親」としてたかしを育てなければいけません。

私の人生の中での疑問が、ひとつ、クリアになりました。

あとは、たかしと前へ進むだけです。









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by marurin373 | 2017-10-19 14:09 | 思うこととかなど | Trackback | Comments(0)