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情緒不安定

たかしは、面白いことも言いますが、悲観的でいつも不安を抱えたはります。

たかしが「どないしよ」と言う度に、私が
「どってこと、あらへん」
「どーもない」
「そんなにならへん」
「なんとかなる」
「気にせんときよし」と、言い続けています。

1日には、粉瘤の再手術もありました。

付いて行ったのですが、心配で心配で仕方ありません。

終わって出てきた後でたかしが言うには、
「粉瘤の種みたいなんが、いっぱいあるんやって」
「うん」
「手術はできひんけど、大きなったら、また切開手術せなあかんねんて」
「うん」
「・・・かあちゃん、どしたん?」

いつもなら「そうかいな」とか「また手術したらええやん」とか言うのですが、どうしても、言えません。


1日は、弟の祥月命日でした。

「どうもない」とか言うことが、精神的につらくて言えないのです。

21年も経つのに。

まだ私は悲しくて淋しくて仕方ありません。

泣くと、たかしが困るので、寝ている間に泣きました。

この日だけは、楽天的なかあちゃんではなく、悲しいお姉ちゃんに戻ってしまいます。

引っ越しもあるので、気が紛れるかと思っていたら、弟の作った陶器や写真がたくさん出てきて、引き戻されてしまいました。

1日だけ乗り越えたら、いつものかあちゃんに戻ります。

一体、いつまで「悲しいお姉ちゃん」に戻ってしまうのでしょうか?









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by marurin373 | 2018-07-03 15:19 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)

なくて七癖

私には、変な癖がありました。

母に「トイレに行ってもいい?」と聞くのです。

幼少期、母は出掛ける前やお風呂に入る前、寝る前など「何かをする前」には必ず私をトイレに行かせていました。

それにトイレが遠かったらしく、時間が経ったら出る・出ないに関わらず「トイレに行きなさい」と言いました。

何かをしていたりテレビを見ていたりして「後で」とか「今、出ーへんもん」などと言うものなら「なんでお母さんの言うことが聞けへんの!」と烈火の如く怒るので、私も素直にトイレに行っていました。

幼稚園の頃「みつばちハッチ」を見ていた私は、かわいそうで仕方なくて、わんわん泣いてしまいました。
それでも「みつばちハッチ」が終わると「トイレに行きなさい」と声がかかり、私は泣きながらトイレに行き、次の「いなかっぺ大将」が始まってもまだ泣いていました。

母は、私がどんな状況であれ、必ずトイレに行かせるのです。

その代わり、出先でトイレに行きたくなり、母に告げると「ちっ」と舌打ちをして「そやさかいあんたと出掛けるのはイヤやねん」などと小言を言いつつ、トイレを探すのです。

なので、私はトイレに行きたくても我慢する癖がついてしまいました。


それから、もう大学生になってからも、トイレに行きたくなった時に、母に聞くようになりました。

「お母さん、トイレ、行ってもいい?」と。

その頃には母も「あかんて言うたら、どうするねんな」と笑っていましたが、私はトイレに行きたくなる度に「お母さん、トイレ、行ってもいい?」と聞くのです。


私がたかしの母となり、母も亡くなってから、そんなことはすっかり忘れていました。

ところが、つい先程、私はたかしに聞いてしまいました。

「トイレ、行ってもいい?」と。

たかしは「んあ?」と不思議そうな顔をしていましたが、聞いてしまった私も驚いてしまいました。

無意識のうちに、幼少期から大人になってからの「癖」が、現れたのです。

もちろん、たかしがトイレに行こうとしている時ではありませんでした。

それでも、つい聞いてしまったのです。

忘れていた筈の「癖」が、何故か甦り、戸惑っています。

もう私を怒る親はいないのに。

この変な「癖」は、一過性のものであってほしいと思っています。









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by marurin373 | 2018-03-26 01:20 | 思うこととかなど | Trackback | Comments(0)

たぶん

たぶん、なんですが。

今日は、母の祥月命日だと思います。

明日だったのかも知れません。

弟も、父も、そして○ちゃんの命日はちゃんと覚えているのに、母の命日だけはうろ覚えなのです。

これは私が知らないうちに、自己防衛として思い出せないのでしょうか?

ちゃんと調べればわかるのですが、そこまでしても、という気持ちもあるのです。

あの頃、たかしは保育園に行っていました。

それがもうじき高校3年生になるのですから、本当に月日の経つのは早いものです。

何故か、母が亡くなったことで、涙を流したことはありません。

既に「わだかまり」はないのに、不思議と泣けないのです。

もう「母親はいない」ということに慣れてしまったのでしょうか。

父の祥月命日は、今月の19日です。

とても寒いので、お彼岸あたりに帰洛して、お墓参りに行こうと思っています。

年を重ねるごとに、よく「お母さんに似て来たなぁ」と言われることが増えてきました。

自分でも認識しています。

とくにパーマをかけて、メガネをかけていると、ふと鏡を見た時に己の姿に驚くことがあります。

今頃、彼岸で3人仲良く、たかしを守っていてほしいと心底思います。









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by marurin373 | 2018-02-08 23:12 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)

精神科の先生が、突然言わはりました。

「弟さんが作った指輪、そろそろ外して片付け」

大学卒業後、指輪を作る仕事をしていた弟が遺したいくつかの指輪を、私は、はめていました。

「それと『禁じられた遊び』ていう映画も、観てみ」

私は近くのTSUTAYAに行って、DVDを借りて、観てみました。

そんなに長い映画ではないのですが、なんかよくわからなかったので3回、観ました。

先生に、弟の指輪は全てきれいに磨いて、ひとつづつ小さなジップロックに入れて缶に片付けたこと、そして映画を観たことを話しました。

先生が言わはるには、私は弟をちゃんと葬っていない。
だから、いつまでも引きづっていて、いつまでもツラいまんま。
それでは前に進めない。
その為に、ちゃんと私なりに弟を葬らなくてはいけない。
遺骨をお墓に入れるだけが「葬る」ことだとは限らない。
・・・とのことでした。

弟の遺した指輪を外し、片付けるという作業は、思いの外ツラい作業でした。

先生が「兄弟を亡くすのは、身体の一部を引きちぎられたよう、親を亡くすのは、心に穴が空いたよう、夫を亡くすのは、コップを割ったようって、言うやんか」
と言わはったので、納得してしまいました。

「ちゃんと葬ってあげないと、前に進めへん。それは、弟さんの為でもあり、あなたの為でもあり、そして息子さんの為でもあるんやで」と言わはりました。

思ったよりもたくさんの指輪を磨いてジップロックに入れながら、これが「葬る」というものなのか、と思いつつ、片付けました。

これで、たかしと2人で前に進むことができるようになり、弟を失った悲しみから解放されるのでしょうか。

今はまだわかりませんけど。











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by marurin373 | 2018-02-02 06:24 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)

早い、早過ぎるねん

「オレなぁ・・・年々思うんやけどな、ほんっまに、時間の経つのって、だんだん早よなっていくんやなぁ」

たかしが、呟きと共に、溜め息を。

「そやなぁ、て、そんなん思うのって、もっと年いってから言うことえ」
「そうか? そやかて、もうクリスマスやろ? そしたら、もう来年やん」
「まぁ、そらそやけど」
「ほんで、笑ろたらあかんを見ながら、またお寿司食べるんやん」
「お寿司、イヤか?」
「ちゃうちゃう、お寿司は、外せへんけどもなぁ」
「食べるんかいな」
「はぁ〜、もうクリスマスかぁ〜」

高校生活も、後1年。

なんやかやと大騒ぎしたのに、もうお終い。

次の進路を考えないといけない、年の瀬。

「オレ、もういくつになると思う? 夏になったら、選挙できるねん。って、信じられる?」

たかしも、夏になれば、18才。

「かあちゃんも、年いくなぁ」
「あんまり考えてないけどな」
「気楽でええなぁ。オレなんか・・・あぁ、もうっ!」

けど、たかしの食べる量は相変わらず。

野菜が高いこの頃は、私の悩みのタネ。

とにかく、たかしの健康を願うばかりです。








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by marurin373 | 2017-12-18 03:11 | 息子(たかし) | Trackback | Comments(0)

もう昔のことに

両親のことをいろいろ考えて、ぐちゃぐちゃしてたことを頭の中で整理して、そして文字にしたことで、やっと私の中で「昔のこと」になりました。

読んでいただいた方々には、不快な思いを抱かせてしまったと思いますが、もう、この「両親」のことには触れません。

やっと、この年にして、たかしと2人で、真っ新な気持ちで前に進むことができるようになりました。

もちろん、全て忘れたわけではないし、悪夢として出てくることもあり、フラッシュバックに悩まされていることは確かなのですが、もう、そんなことは乗り越えていこうと改めて思います。

昔のことよりも、たかしの「これから」の方がずっと大事です。

そして、私自身を労わることも。

新しい生活、新しい喜び、新しい悩み。

いろいろなことを乗り越えてきましたが、やはり一番つらかったことでした。

けど、もう、そんなことに捉われずに、進んでいきます。








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by marurin373 | 2017-11-06 21:27 | 思うこととかなど | Trackback | Comments(0)

誘発

「何故、私は両親から厳しすぎる(虐待とも充分言えるような)育て方をされたのか?」

カウンセリングの先生、何気ない友達の一言、精神科の先生の話しなど、いろいろな方々の意見を聞いて、私なりに頭の中で整理が漸くできました。

そして「文字」にすることができるようになりました。

まず、カウンセリングの先生が仰ったことは、
「あなたは、小さい時、親のプライドが保てなくなるくらい論理的で、IQも高くて、頭も良い子供だったのでしょうね」でした。


小学校の時に学校でIQの検査があり、後で母が呼び出されました。

内容は、IQが、他の子よりもずっと高いので、育て方に気を付けた方がいい。もしかしたら、頭脳犯の詐欺師になるか、博士号をとるような子に育つか、両親の育て方次第なのだから、充分気を付けないといけない、ということを担任の教師に言われたそうです。


私の母は、腹が立つと、すぐに舌打ちをし、頰を叩く人でした。

幼稚園に通っていた頃のことなのですが、原因は私が母の言うことに逆らったということで、母はいつものように「ちっ」と舌打ちをし、私の頰を叩こうとしたのですが、その時、私が
「ちょっと待って。おんなじ叩くんやったら、指輪はめてない方の手で叩いて。指輪が当たって、余計に痛いし」と、叩こうとする母の手を止めました。
それで、母は、余計に腹が立ち、指輪を外してまで、私の頰を叩くのでした。

あと少しで小学校、という時に暮らした家は、父方の祖母と一緒でした。

その家は所謂「うなぎの寝床」で、間口は狭いのですが、奥行きはずーっと部屋や庭、離れ、物置き、納屋と続いて行くような古い古い家でした。

時々、母は、私を「物置きにいれる」という罰を与えました。

しかし、物置きは、最初は暗くてよく見えないのですが、目が慣れてくると、天窓から差す光でそんなに「恐いところ」ではありませんでした。
それより、古い京人形や、アルバム、雛人形、五月人形、それに甲冑などもあって、子供心をくすぐるくらい、宝がたくさん納まっている「楽しい」ところでした。

それで、せっかく楽しく探検をしているのに、祖母が私を助けに来るのです。

「また納屋に入れられてたんか? かわいそうに、早よ出といで」と、出されてしまうのです。

その時の私は「また、おばあちゃんとお母さんとの仲が悪うなって、いややなぁ」と、思うのでした。

母がいない時は、祖母が「あんたのお母さん、怒ってばっかりやさかい、嫌いやわ」と、私に言い、母は私に祖母の悪口を言うので、小学生の低学年の頃から、うんざりしていました。

その前、話しが前後しますが、両親が結婚して、私が産まれて暫くは、3人で暮らしていました。

私の一番古い記憶は、夜になり、部屋に布団を敷かれて寝かされるのですが、毎晩、なかなか眠れず、隣の部屋での両親が話しているのをずっと聞いていました。
布団の中にいるのもイヤな時は、こっそり抜け出して、暗い部屋の隅でぬいぐるみで遊んだりしていました。
母がそれに気付いて「いや、まだ寝てへんわ」と言うと、父が「もう、放っとけ」とか話しているのを聞きながら、眠くなるのを待っていました。
2・3才の頃から、不眠症だったようです。

時々、母が父に「もう、車で寝かし付けてきて」と言い「プアーマン・ミニクーパー」と言われる、N360に私を乗せて、京都のいろんなところを父とドライブしていました。
いつもはお酒を呑んで、気分屋で、恐い父でしたが、2人でドライブをしている時は、いろんな話しをしてくれて「この話しは、お母さんには内緒やで」という約束で、本当にいろいろな話しをしてくれました。
その時の私は、まだ3才くらいだと思うのですが、父はあまり「子供扱い」せずにいてくれたように思います。

その3才の時、N360で天橋立まで行ったのですが、京都市からずっと北の方に行くと、山間部に入ります。道もカーブが続き、私は面白くて「ぐわーん、ぐわーん」とか言いながら楽しんでいたのですが、母がやたらと「ちょっと、止めて」と言い、吐いていました。
母は真っ青な顔をして「もう帰りたい」と身勝手なことをいいますが、父に「今からやったら、帰るよりあっち行く方が早いさかい」と宥められ、ということを何度もして、私もなんかだんだんと楽しくなくなっていって、天橋立まで行きました。

「天橋立ではな、後ろ向いて、股の間から覗いて観るんや」と、父に教わり、後ろを向いて股の間から覗くのですが、うまくできずに、父が笑っていました。

そんな楽しいひと時を過ごすことが悪いことのように、母は青い顔をして、口にハンカチをあててずっとベンチに座っていました。

後でわかったのですが、その時、母は弟を身籠っていて、まだ気付いてなかったのでした。

私は大きくなっていく母のお腹をさわってみたいのですが、母はいつも機嫌が悪く、トイレでは吐いてるし、話し掛けても無視されるし、そのうちに私は大好きな母方のおばあちゃんのところに預けられるようになりました。

「この子が言うことが、いちいち癇に障って、しゃあないねん。しんどいのに腹立つし、そやさかい、暫く、もうずっと預かっといて」と、祖母に手を繋がれている私の目の前で母が言い、帰っていきました。

で、私の4つ下の弟が産まれ、とにかく「お姉ちゃんなんやさかい、我慢しよし」という言葉を、毎日、何度も聞かされて幼稚園に入園して、その後、父方の祖母と暮らすようになりました。

私が95点を取ると、母は「なんであと5点が取れへん!」と怒ります。

けれど、弟が80点を取ると、すっごい褒めるのです。

「この差は、一体何やろう?」という疑問を抱いたまま、大学まで進学しました。

小学校4年生の時に、全国統一のテストがありました。

1人は、京都では老舗で有名で入塾試験があるような塾に通う男の子。

1人は、家で宿題をすると弟がやかましいし、何かと用事を言いつけられるので、放課後に宿題をすませて、晩ご飯の手伝いを言いつけられる私。

この2人だけが、100点をとったらしいのです。

担任の先生がとにかく褒めてくださって「ちゃんと、家に帰ったらおうちの人に言うように」と仰るので、私は帰ってから、どんなテストで、どんな結果だったのか、を報告しました。

次の日。

先生が「昨日、家帰って報告したら、なんて言わはった?」と聴かはりました。

男の子は「よく頑張ったね。次も、頑張って勉強して、100点を目指そうね、と言われました」と、照れ臭そうに言うてはりました。

次に先生が私に「お前んとこは、なんて言うてくれはった?」と言わはったので、ありのまま答えました。

「毎日、予習・復習して、先生の話し聴いてたら、100点は当たり前や、と言われました」

先生は何も仰らず、教室全体がざわざわして「・・鬼ババや」とか「恐いなぁ」とか、そんな声が聞こえてきました。


ある日、学校から帰る頃、雨が降ってきました。

私はどうしようかなぁと、校門の方へ行ったら、なんと母が傘を持って迎えに来てくれました。

私は嬉しくて、思わず「傘、持って来てくれたん?」と言うと、母は「いや、これはあの子のや」と、弟の傘だけ、持って来ていました。

私は悲しくて、いつもなら友達の傘に入れてもらうとか、用務員室で傘を借りたりして帰るのですが、その日は濡れたまま帰りました。

母は「あんたは、傘借りたりして、うまいこと濡れへんように帰ってくるけど、あの子はずぶ濡れになって、帰ってくるねん。そやのに、そんなに濡れて帰ってきたんは、当て付けか?」と、怒られてしまいました。

小学校の6年生の時、京都では一番難しいといわれていた私立の中学を受験してみぃひんか?と、担任に言われたのですが、母に言うと「お金がかからへん中学があるんやさかい、そっちに行かせます」と、わざわざ先生に言いに学校に来ていました。


何故、母が「あと5点」とか、全国統一テストで100点とっても、私立の中学にしても、振り返ってみると、母なりに迷っていたのがわかります。

「頭はいい」と、思ってくれていたとは思うのですが、けれど「それ以上」のレベルになると、私はどこまでいくのかがわからない。
とにかく、私は「できるだけ、普通のレベルのところで、トップを取る」というふうに育てたかったのかもしれません。


大学になっても、両親は、申し合わせたように同じことを言うてました。

「子供には、親が手をかけなくても、自分でなんとかやっていける子供と、親が手をかけないとあかん子供がいてるんや。お前はなんとか1人でも生きていくようになる。けど、あいつは、わしらが手を貸したらんと、生きていけへんのや」


私は、朝から夕方まで働いて、自分で学費を捻出し、2回生から独り暮らしをするように言われました。
だから、いつもお金がありませんでした。

弟は、志望校に落ちたので、定時制高校に行き、3年間だけバイトして、4年生は絵の塾に通わせてもらい、年間何百万もする美大に進学しました。

両親は、私のことを、本当はどう思っていたのでしょうか?

信用していたのでしょうか?

それとも、恐がりつつ、毎日顔を合わせていたのでしょうか?
まるで化け物のように。

私も、受験の時や、定期テストの時は、必死で夜中まで勉強してました。

何も勉強しないから、弟はテストの点数も悪いのです。

けれど、弟には、私にはない「絵」の才能がありました。

両親は、大事に大事に弟を育て、お金をかけていました。

しかし、26才で、自らの人生を終えました。

「なんであんたが残ったんやろな。あんだけ大事にしてたのに、死んでしもて」と、母が呟いたのを、聞いてしまい、改めて、私は「自分」について深く考えるようになり、後追いもしましたが、生き残ってしまいました。

今、弟、父、母と亡くなって、私1人が残りました。

「天才も20才越えたらただの人」です。

今は、誰に相談することもできず、手探りでたかしを育てています。

「言われて悲しかったことは、言わない」と「余程のことがない限り、叩かない」

この2つだけ、決めています。
それでも、たかしを傷付けてしまうことを言うてしまっています。

「親としてのプライドを保つ為に、厳しく(虐待とも言えることも多くあるが)育てた」

これが、私の両親の本当のところだったのでしょう。

許すとか許さないとか、もうそんなことはどうでもいいことですが、私がこんな年になり、たかしという息子と暮らしているからこそ、わかったことかもしれません。

ただ、その「親としてのプライドを保つ」ということと、殴るということ、私が「知らなかった」といくら言っても「いや、お前は知ってた」と言って、信じてもらえないことなどが、その「親としてのプライドを保つ」ことと同じだ、とは、私は思いません。

両親は、IQなどというテスト結果や、定期テストや、通知簿の数字というフィルター越しに私を見ていたのかもしれません。

弟が亡くなった時、私が父の胸に顔を埋めようとしたら、突き飛ばされました。

両親にとって「子供」は、弟だけだったのかもしれません。

母は、30前になった私に「ちょっと勉強できるから、て、こずらにくいことばっかり言うあんたのこと、大嫌いやったわ」と言うし。

私は、ただ単に「テストでいい点とって、褒めてもらいたい、好かれたい」と思い、頑張って、友達とも遊ばずに勉強してたのに。

それが、気に入らなかったとは。

独り暮らしの家に帰り、ビールを呑みながら、久し振りに、泣きました。


けれど、もう全てすんだ事。

いつまでも引きずることではありません。

今は、私が「親」世代です。

それに、あの人達も、もういません。

時折、父に殴られる寸前の「・・・来る!」というびくっとした感覚が、現れます。
フラッシュバックというものです。

もう、文字にすることで、この問題については、私の中では終わりました。

今は「親」としてたかしを育てなければいけません。

私の人生の中での疑問が、ひとつ、クリアになりました。

あとは、たかしと前へ進むだけです。









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by marurin373 | 2017-10-19 14:09 | 思うこととかなど | Trackback | Comments(2)

混乱

いろんなことを、ずーっと考え続けているのですが、うまく言葉にできないでいます。

ちょっと頭の中を整理整頓して、文字にできるようになったら、また綴ってみたいと思っています。

短期間の間に、いろんな考え方や、助言や、叱責や、いろいろなことを受け止めきれずにいて、その上に、しないといけない事がたくさんあり、心身共に疲れています。

文字にすることができたら、頭の中も整理できたということなので、暫くは考えつつ、文字にできるようにしていきます。










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by marurin373 | 2017-09-03 21:36 | 思うこととかなど | Trackback | Comments(0)

弟が「お姉ちゃん、お姉ちゃん、いつまで寝てるねん」と、いつもの鼻声で、私を起こしました。

それで起きたのですが、今は2017年の7月9日になったばかりの深夜。

たかしが私のベットの下で寝ています。

弟の声を、確かに聞いたのに、あれは「夢」やったんか・・・。

そう思うと、堰を切ったように、涙が溢れてきて、泣いて泣いて止まらなくなりました。

寝ていたのに、たかしも「どうしたんや?」と起きてきて、私が泣きながら「お姉ちゃん、て、呼ぶから、起きたのに、いてへんかった」と言うと、眠たいのと、毎年のことなので、たかしも、だんだんとそんな私に嫌気がさしてきたようで。

「もうな、そんなに毎年毎年泣いてたらな、天国で、困ってはるからな、もう、そろそろ乗り越えなあかんのちゃうか?」と、たかしが言いました。

「乗り越えられるて、思うか?」
「生きたはった時よりも、亡くならはってからのほうが、もう長いんちゃうのん」
「ちがう! 26年、生きてはって、亡くなってから、20年やもん!」
「もうな、乗り越えな、仕方ないんちゃうのん」

ここで、私は、決してたかしに言ってはいけないことを言ってしまいました。

「そやかて、たかしは、一人っ子やん。兄弟無くす、悲しみはわからへんやん」と。

たかしは「そやな、確かに、オレは一人っ子やしな、あんたの悲しみはわからへんわな」と言って、あっちに行ってしまいました。

今の私の言葉は、決して言ってはいけないことです。

私が、たかし以外の子供を産まなかったんやから。

「親」が「子供」に対して、言うべき言葉ではありませんでした。

でも、簡単に「乗り越えな、仕方ないんちゃうのん」と言うので、つい、口から出てしまいました。

私は、弟を、あんなかたちで亡くした悲しみを、分かち合う家族も、もういません。

父も、母も、もうとっくに、あっちに逝っています。

独りで、堪え、耐え偲んで、泣き、やり過ごすしかない、淋しさもあります。

7月1日の、弟の祥月命日の日に書いたブログは、今読むと、ウソばっかりです。

「そういう風に思うことにしよう」という、内容です。

そして、たかしが望んでいることを、書いただけでした。

弟が亡くなったことと、たかしがいてることは、決して「同じ」になることは、ないのでした。

ただ、毎年、私が号泣する姿を見て、たかしが困り果て、どうしたらいいのかわからない、という姿を見てきているので、私は「姉として」よりも「母として」の立場で、書いたものでした。

けど、やはりそんな簡単に、すっきりとできる訳もなくて。

ちゃんと泣いてなかったから、ずっとずっと、ツラい気持ちが心の中で暴れていて、抑えるのに必死でした。

私は、深夜に号泣し、たかしにひどいことを言い、でも「かあちゃんも、落ち着いたら、ちゃんと寝ぇな」と声をかけてくれて、たかしは寝てしまったようです。

たかしにしたら「乗り越えんと、仕方が無い」と言うしか、なかったのだと思います。

毎年、泣いてる母親にかける言葉など、16才の男の子に思いつく筈もありません。

それでも、たかしなりに、私の為に、考えて言ってくれた言葉やったんやと思います。

その言葉に、逆らうような態度をとってしまい、言ってはいけないことまで言って。

「姉」としても「母」としても、失格です。

悲しい時には、ちゃんと、でもこっそりと、泣かないと、こじれてしまうということがわかりました。

朝になって、たかしが起きてきたら、ちゃんと謝ろうと思います。

それまで、私も、少し寝ることにします。

「ええかっこしい」な内容のブログは、後でしっぺ返しをくらうということも、身を以て知りました。

今は、いろいろな思い出や、弟の声や、顔や、歌っている声、話し合っていた言葉、初めて赤ちゃんの弟を見た時のことやなんかと、それと、たかしがお腹にいてる時のことや、赤ちゃんの時のこと、そして悲しい思いをさせてしまっていたことやなんかが、頭の中をぐるぐるしていて、文章もきちんと書けていません。

頭の中を整理して、ちょっとでも落ち着く為に、そして、本音のブログを残す為に、ただ心のうちを文字にしています。

後で読んだら、また変な内容になっているかもしれません。

素直に「悲しくて仕方が無い」という自分も、認めないとダメですね。

それと、たかしは私の「息子」であって、決して私から甘えてはいけないということも、肝に命じました。

たかし、ごめんなさい。

かあちゃんは、言い過ぎました。

・・・練習です。

そろそろ、寝ます。






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by marurin373 | 2017-07-09 03:07 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)

20年

今日は、弟の祥月命日です。

今年で、20年。

弟が遺したバンドのカセットを、CDにおこしてもらい、それをMacに取り込んで、最近、ずっと、それを聴いていました。

書類を探さないといけなくて、いろいろと探していたら、小さなアルバムが出てきました。

それをぱらぱらと見ていたのですが、その中で「あれ? 私、たかしとツーショットの写真なんて、撮ったっけ」と思い、よく見ると、たかしではなく、弟でした。

今のたかしくらいの年齢の弟が、そこに私と写っていて、かなり驚きました。

立ってる佇まい、醸し出す雰囲気。

よく見ると、顔は違うのに、あ、鼻と口はよく似ていますが、髪質や、顔色が、あまりにも似ていることに、驚きました。

いなくなって、20年が経ち、今日の私の心境が、少し変わっていることに気が付きました。

弟の26年間の思い出は、とてもとても大事。

私の宝物です。

けれど、これから本当に大事なのは「たかしのこれから」です。

あと9年で、たかしは弟と同い年になり、やがて越えていきます。

「姉として」の役目よりも「母として」の役目の方が大事です。

そう思うと、なんとなく、心が軽くなりました。

弟に会いたくて会いたくて、仕方が無い時があるのですが、それは、26年、お姉ちゃんをしていたから。

もっと大事なことは「母である私」です。


こう言う風に思えるようになるまで、20年、かかりました。

毎年、この日は、たかしにも、つらい思いをさせていました。

泣いて泣いて、苦しんでいました。

その度に、たかしが、私を慰めてくれていました。

そうや。

私には、たかしがいてる。

何故、こんな大事な、大切なことに、気が付かなかったのでしょうか?

悲しみのあまり、母であることを忘れていたのかも知れません。

弟の歌声を聴きながら「たかしのこれから」について、考えていました。


やっと、「呪縛」から、解き放たれたような、そんな気分です。

弟も、喜んでいるかもしれません。

「お姉ちゃん」だったことには、変わりはありませんが、同時に、私は「母親」。

「たかしのこれから」を、1人ではなく、本人のたかしと、学校の先生と、お医者さんと、相談しながら、考えていきます。

で、弟には、見守ってもらうことにします。


いっつも、ありがとさん。

これからも、よろしゅうに。

ちゃんと、叔父さんとして、たかしを守ってや。









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by marurin373 | 2017-07-01 21:50 | 今日の出来事 | Trackback | Comments(0)